初めての無銭飲食
「ああ、疲れたあー。」
７月中旬のある晩のことである。仕事を終えたうちの奥さんを迎えに静岡駅へ行った。その時の彼女の一言。
「じゃあ、食べていこうか。」
私は、奥さんのナップサックを持ち、飲食街へと向かった。
ナップは随分重たかった。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか？」
「はい。」
店内に入ると、４人がけのテーブルへ案内された。
私は、奥に座り、手前の席にナップを置いた。
「だめ。この荷物は、奥の方において！」 妻が強い口調で言った。
どうやら重要書類のようだ。
仕方がないので、奥の席にナップザックを置き、私が手前の席に座った。
「ご注文は？」
「天おろしと天おろしの大盛り、それと、お冷ください。」
「かしこまりました。」
日中かなり暑かったので、冷たい水が飲みたかった。
しばらくすると、若い店員さんがお冷を持ってきてくれた。
「はい、どうぞ！」
そう言いながらコップを置こうとした瞬間、店員さんがバランスをくずした。
「あっ！」
２つのコップが倒れ、水と氷が、私のズボンめがけ飛んできた。
目の前が水浸しとなった。
「すみません。すみません。」 そう謝りながら店員さんがすぐにタオルを持ってきた。
他のお客さんが一斉に私を見た。
「いいよ、いいよ。」
申し訳なさそうに腰をかがめ、深々と謝る店員さんに、私は言った。
すぐにお店の奥からも３人、謝りに来た。
「申し訳ございません。別室で、おズボン乾かしますので、こちらへ」
「いいよ。すぐ乾くから。」
とは言ったものの、ずぶぬれのズボンは、まさに、おもらし状態。冷たかった。
あっけにとられていたうちの奥さんは、身を乗り出し、ぽつりと言った。
「大丈夫？ナップザック。」
この言葉にがっかり。でももしかして、うちの奥さんには予知能力があるのかもしれない。
私は、彼女の重要書類の身代わりとなり、濡れたにちがいない。
注文した天おろしの大盛りは、とてもおいしかった。
食べ終わって、勘定の時、お店の人がこう言った。
「今日は本当に申し訳ありませんでした。お客さんの分のお金は結構ですので。」
「それは悪いよ。きちんと払います。」
「いいえ、お客さんからお金を頂くわけにはいきません。」 何度もそう言った。
こうして、私は初めて無銭飲食を体験したのであった。
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